[44호] 문학의 미래? / 구라카즈 시게루(일본어)

강연
작성자
자율평론
작성일
2018-02-25 23:35
조회
586
『나 자신이고자 하는 충동』 출간 기념 저자 화상 강연

“문학의 미래?”


주최
다중지성의 정원 (http://daziwon.com)
도서출판 갈무리 (http://galmuri.co.kr)
2015. 4. 25


강연 구라케즈 시게루
통역/번역 한태준
사회 이종호

(아래 강연문은 저자의 허락을 받아 온라인에 게재합니다.)
한국어 번역 : http://blog.daum.net/kurakazushigeru/20


 こんにちは。倉数茂です。

 まず最初に、今日のこの場所を用意してくれたみなさんにお礼を申し上げたいと思います。つまり、ガルムリ出版社のみなさん、通訳の さん、そしてこの場に集まっていただいたみなさんです。

 わたしはこれまで、日本とアジアの関係、アジアのなかの日本というテーマに関心を持ってきて、中国の人たちとも話し合ったりしてきたのですが、なぜかこれまで韓国の方々とお話しする機会がありませんでした。

 個人的な友人もいないし、韓国の文化状況について詳しいともいえません。ですので、今日は韓国について学ぶいい機会になるだろうと期待しています。

 それから、今日の集まりのタイトルの「文学の未来?」ということばについて説明します。なにかタイトルをつけるように求められたとき、すぐに思いついたのがこのことばでした。日本の文芸ジャーナリズムでは、「文学の未来はどうなるのか?」といった話題が定期的にとりあげられます。もちろんこうした問いかけは、「文学に危機が訪れている」といった紋切り型とひとつになっているわけですが、そういうものを見るたびに、わたしは白けたような気持ちを感じてきました。タイトルの「?」にはそうした皮肉をこめたつもりです。

 なぜ「文学の危機」を問題にすることに共感できないのか? 実は半分くらいは共感しているのですが、同時に半分では、そうした問いかけは文芸ジャーナリズムの恒例儀式であり、商売の手立てに過ぎないという気持ちを持っているからです。そのへんの複雑な感情についても、今日説明できればいいと思います。

 さて、最初にある著作をとりあげます。今日のために少し前に読んだものです。韓国の文芸批評家金明仁氏の『闘争の詩学』という本です。この金氏がどのような方なのか、わたしはここに書いてある以上のことは知りません。しかし、この本を読んで、いろいろと啓発され、感銘を受けました。

 感じたのは、韓国と日本の文学状況の基本的な共通性と、部分的な差異です。金さんは、ここでやはり「文学の死」を問題にしています。それは文学作品が、社会的な意義や主張を失い、資本主義のなかで矮小な商品と化してしまったからです。彼がこの「近代文学の死」ということばを使ったのは2005年の文章ですね。この年代も僕には興味深く思われました。

 これを読んだとき、わたしがどうしても個人的に思い出さざるを得なかったのが、日本で1990年代に指導的な批評家であった柄谷行人が書いた『近代文学の終わり』という文章でした。彼が 年に発表したものです。実はわたしは大学院の修士課程でで柄谷に教わり、その前年に他の大学に移ったばかりでした。つまり、博士課程になり、いよいよ文学の世界で生きていこうと決意したとたんに、先生から文学は終わったと宣告されてしまったわけです。

 しかし、正直なところ、柄谷の認識に衝撃を受けたというわけではありませんでした。80年代から、文学の地位低下についてはずっと言われつづけて来たからです。柄谷の主張は目新しいものではなく、誰もが言っていたことをあらためて言い直したようなところがありました。

 柄谷は、文学は社会批判という役割を放棄してしまった以上、本当に「文学」を志す人間は、文章を書いたりするのではなく、直接社会運動に飛び込むべきだといっています。これが極論であることは明らかです。しかし、文学の死が宣告されているのにもかかわらず、なぜ自分は文学の世界にとどまりつづけるのかということを考えるきっかけにはなりました。つまりそのころから、わたしは「文学の死」問題にこだわっているわけです。

 では、なぜ文学が死んだ、少なくともそのようにいわれるのかを考えてみましょう。「死」以前と以降でなにがかわったのか? そのためには「近代文学」がどのようなものだったのか、歴史的に考えてみる必要があります。

 わたしは次のように思っています。「近代文学」は、「近代化」modernizationという、より巨大な国家規模のプロジェクトの一部であった、と。

 日本の近代文学が、江戸時代までのそれまでの文学と異なっていることは明らかです。日本は相対的に文学の伝統の豊かな国だと思いますが、江戸時代まで、文学者=戯作者の社会的地位は低いものでした。戯作者は、芝居などと結びついて大衆に娯楽を供給する特殊技能者であり、職人でした。また、和歌などは天皇制ともかかわってそれなりの文化的地位を維持してきましたが、それらは審美的な心情だけを表現するもので、社会批評の要素をほとんど持ちませんでした。

 近代文学は、文学の世界にある種の社会性、理念性を持ち込みました。もちろんそれは西洋から輸入されたものです。明治時代の作家たちは、自分が受け継いだ江戸時代からの文学で養われた感覚に、西洋的な「近代文学」の理念をむりやり接木するために苦闘しました。

 明治以降「文学」は自由や自立や平等といった近代的理念を追求するものとなりました。別のことばでいえば「個人主義」です。夏目漱石に「私の個人主義」という有名な講演がありますが、漱石こそ、日本という場所での個人主義の必要性と困難にもっとも意識的だった作家といえます。

 このように歴史的に言えば、「文学」も、国民国家樹立を志向する、「近代化」という百年規模のプロジェクトの一部だったのです。ただしそれは、国家主導の近代化に抗議する下からの近代化という性格を帯びていました。実際の担い手は知識人でしたが、民衆からの体制批判、社会批判という側面を持っていたわけです。

 文学が近代的理念を担っている以上、作家は単なる物語作りの職人ではなく、思想家、ないし文明批評家として存在することになります。ロシア文学なんかも明らかにそうですね。他方でそれはナショナリズムとも切り離せません。文学は国民国家の文化的中枢とみなされます。

 おそらくこうした構造は、日本ばかりでなく後発近代国家に広く見られるものなのではないかと思います。

 しかし、日本の場合、1980年代に近代化のプロジェクトが終焉を迎えます。特に八〇年代後半には、日本は近代国家として十分に成熟したという気分が広がります。そこではもう理念を担う必然性もなくなる。作家は、物語職人とみなされるようになります。江戸時代の戯作者への先祖がえりともいえるでしょう。

 もっともその後の長期不況の中で、格差や貧困や過剰労働というかたちで、日本社会の問題点があらわになる。つまり自由でも平等でもまったくないのですが、それでも、抑圧を打破して人間を解放する、といった「近代」の物語が輝きを取り戻すことはありませんでした

 むしろ政治の機能不全や革命や改革といった外科手術的措置の困難ばかりが意識されるようになりました。政治のレベルだけでなく、経済や金融、ITによる日常的なコミュニケーションといったものがハイブリッドに絡まりあったものとして日々の「生きづらさ」が存在している以上、単純な解決策ではにっちもさっちも行かないという感覚です。

 そこで、誰かが相対的な社会批判や理想の提示を行うことなどできそうにない。かわりに、社会学者、経済学者、心理学者、官僚といったローカルな専門家がそれぞれの場所で部分的な利害調整を行う、というかたちでしか知識人は存在していないように見えます。

 こうして、作家が思想家であった時代は終わりを告げました。日本ではこのような「近代文学」の解体が二十年くらいかけて進行しました。金明仁氏は、80年代文学と90年代文学のあいだに断絶を見ているので、韓国ではもう少し事態が急激に進んだのかもしれません。

 日本では特に2000年前後に文芸批評の凋落が明らかになり、若手の批評家と予備軍はなだれを打って、サブカルチャー批評に移りました。今はそのサブカル批評も沈滞して、批評自体が不在になっているような状況です。

 文芸批評というのは、個別の作品の向こう側に、社会的な意味や文脈を読み込むことですが、現代では社会を語るのになぜフィクションを媒介にする必要があるのか、誰にも理解されなくなっているようです。

 これがわたしの考える「近代文学の死」の経緯です。確かに、近代文学は終わったという認識は正しい。しかし同時に、これは単に文学の社会的な役割が変わっただけではないかとも思えるのです。

 批評家というのは、作品からどのような社会状況をひきだすことができるかと考えるのが仕事です。しかし作家は違う。作家にとってはまず自分の内側からわきだしてくるイメージやストーリーの方が重要です。それが何を意味しているのかはあとから考えることです。

 そして、「近代文学」が終わったかどうかなどとは関係なく、今もずっと膨大な作品が書かれつづけている。それはいったいどういうことか?

 もちろん今の文学に批判的な人は、それこそがまさに商業主義の支配なのだというでしょう。つまり、市場の要請に従って、出版者は作家を駆り立て、作家は市場の流行を追いかけながら、なんとか一儲けしようと苦闘しているのだ、と。

 けれど、それはあまりに一面的すぎる見方です。もちろん、市場の圧力が大きいというのはたしかにそうでしょう。もっとも正確に言えば、近代以降、文芸作品が市場から自由であったことなどないのですが、それでも現在では市場から自立した評価軸が困難になっているとはいえるでしょう。

 しかし作家というのは、まず自分の内側のモチーフから出発するものです。そこに商業主義的な制約があるにしても、その中で、いかに自分のモチーフを維持し、イマジネーションを開花させるかを考えるというのが作家の自然な発想だと思います。市場の要請と作家のモチヴェーションを対立し、葛藤する二項のように考えるのはかなり観念的だと思います。

 さらに、人間というのは本質的にどのような環境にあっても語り続け、物語をつくりつづけるものです。ことばでフィクションを作り上げるというのは、人間にとって根源的な本能であって、どのような社会であれ止むことがないのは明白です。

 わたしは、人間のユニークさは現実を確認するのに必ず虚構を必要とするということだと思っています。その虚構作成能力=イマジネーションの根源には言語能力がある。つまり、言語という人間固有の生物学的特質が歴史のなかでさまざまなかたちで発現する。そのひとつが文学なのだと考えています。そう考えれば、「近代文学」が役割を終え、社会がどう姿をかえても、ことばと文字によってフィクションをつむぐという行為が、文化のなかから消えることはありえない。

 話が急に抽象的になりすぎたかもしれません。そこで、最後にこれからの文学がどのようなものになるのか考えてみたいと思います。

 平田オリザという劇作家がいます。90年代の演劇を革新した重要な人物ですが、彼は1990年代半ばに、自分たちの演劇には伝えたいことや読者に向けられたメッセージはないのだということを言いました。これは別の言い方をすれば、自分たちの芝居には主題がない、あるいは、適切な主題を設定できない、ということです。

 主題、主張の不在が何をもたらすか。実は端的にいって売れないということです。つまり平田オリザは、自分の劇場に観客が押し寄せることはないだろうといっていたのですね。彼は、自分の芝居はカップルがデートに使うのには向かないなんて風にもいっていますね。主題がある作品というのは、見終わったあとにわっとおしゃべりがしたくなります。議論したくなる。相手の意見を確かめたくなる。コミュニケーションの欲求を駆り立てられるわけです。これは演劇でも映画でも、あるいは小説でもある程度はあてはまるのではないかと思います。主題というのは、作者と読者の関係のうえでは、メッセージであり主張なのですが、読者間の関係に注目してみれば、人々を結びつけるもの、共通の場所に集めるもの、動員するものです。だから主題というのは本質において政治的です。

 たとえば、今日本でもっとも有名な作家は百田直樹という人です。作家であり、同時に右派のオピニオンリーダーなのですが、かれを一躍有名にしたのは、「永遠の零」という特攻隊を素材にした小説が大ベストセラーになったことです。つまり、彼はあからさまに「太平洋戦争の擁護」という主題を提示することで大衆の動員に成功したわけです。文学作品としては拙劣なものですが、政治的には大成功した例です。

 平田はそうしたコミュニケーションを掻き立てない芝居をやる、というわけですね。むしろ無口になって、帰り道をじっとひとりで考え込まざるを得ないような演劇。彼はこれを主題ではなく、存在を描く演劇だとか、新しいリアリズムなのだという言い方をしています。

 これは現代文学のある種の潮流にもよくあてはまるように思います。2000年代に出てきた作家たちのなかには、通常の意味でのリアリズムとはまったく違うのだけど、確かにある種のリアリティ、別のことばで言うと主題というかたちで縮減できない生の複雑さを描く人たちがいる。柴崎友香、磯崎憲一郎、山下澄人などを念頭においているのですが、彼らは語り口としては非常に奇抜で前衛的なスタイルを駆使しているにも関わらず、わたしたちの日常的な生の繊細かつ不安定な実質を表現しているような印象を与える。どこか静物画的でもあります。もっとも、批評家にしてみれば、扱いづらい作家たちでしょうね。

 ただし現代文学は拡散していますから、これはあくまでひとつの潮流ではあっても、支配的な傾向ではありません。では、ほかにどのような可能性があるのでしょうか? ここでひとつ思い出してみたいのは、19世紀に生まれた「小説」というジャンル自体が、急速に複雑化する社会に適合するためにあみだされたものだということです。つまり、ブルジョア革命によって成立した市民社会は、身分によって区分けされたそれ以前の社会より、金銭の流れや、権力の働きといった点ではるかに複雑だったわけですね。それ以前の、叙事詩や物語が、基本的に「できごと」の継時的な関係しか描けなかったのに対して、小説の描写は、社会関係の空間的な広がりを描くことができたということです。

 日本のような後発国家で近代文学が必要とされたのも、身分や出自といったよりどころを失った個人が、複雑な社会をさまよっていくさまを描くことができたからでしょう。

 近代の理念が失墜した結果、わたしたちは何が正しく何が悪なのか、容易に答がみつからない世界に生きています。そこで、この複雑性を表現するのに長けているという小説の特徴、そしてことばならではの思弁性は、小説が持っている大きな優位ではないかと思います。現代社会を生きる意味を問い直すのに、小説はまだまだ有効なジャンルだろうということです。

 さらにひとつ付け加えたいのは、アメリカの研究者であるピーター・ブルックスが『メロドラマ的想像力』という本で述べている主張です。この本で彼は、「メロドラマ」という物語形式は、神を失った近代社会が、神聖さや超越性を何らかのかたちで維持しようとして生まれたものだと言っています。

 メロドラマというと、わたしたちはすぐにお涙頂戴のテレビドラマなどを思い出しますよね。ここ十年ほどで日本でもっともヒットしたメロドラマは韓国発の「冬のソナタ」です。一般にメロドラマはあまり高級なイメージを持たれていないのですが、ブルックスによれば、メロドラマはフランス革命以降に誕生してパリの劇壇で大流行した物語のパターンなのです。

 ここではメロドラマを、読者を登場人物に強く感情移入させ、その人物の矢継ぎ早の苦難と最終的な勝利によって、読者にカタルシスを与える物語というふうに考えておきましょう。すると、ドラマ、映画など領域を問わず、現在のあらゆるポピュラーな物語コンテンツに広く浸透していることがわかります。

 メロドラマは感情につよく訴えることを重視するあまり、論理性や本当らしさを軽視するので、あまり知的だとは考えられていません。しかし、ブルックスの主張のおもしろさは、世俗の論理では抜け落ちてしまう神聖さや超越性を求める大衆の欲望が、そのメロドラマにこめられているとする点です。

 批評家が「文学の死」を問題とするとき、本当は文学は死んでしまったのではなく、大衆的な物語の氾濫に呑み込まれたとするべきです。現代はかつてなく膨大な物語が、日々流通し、消費されていく時代だからです。それらのなかには、構造のうえで高度な洗練に達したものも少なくありません。

 ブルックスのメロドラマ論から学ぶべきは、そうしたサブカルチャー的なコンテンツの持つ様式を軽視するべきではない、ということでしょう。

 先ほど述べたように、わたしは、人間の言語というのは、必然的に虚構を分泌してしまうものだと思っています。文学というのは、その言語能力のいわば直系のこどもなのです。『私自身であろうとする衝動』では「美的経験」ということばを使いましたが、フィクションや芸術などの経験を通して、人間が自分の生の意味を知ろうとするのは、どのような時代もかわらないでしょう。ただ、そのために利用されるツールや、表現形式は移り変わっていくでしょう。文学の世界では、19世紀に生まれた「小説」というジャンルがその中心を担ってきました。しかし、これからがそれも変わっていくかもしれないし、小説自体がこれまでとは違ってくるでしょう。批評家の仕事は、その変化を注意深く観察することでしょう。そして、小説家の仕事は、自分が生きている現実をどうしたらリアルにとらえれるか悩みながら、まずとにかく書いてみることでしょう。

 こんにちは。倉数茂です。

 まず最初に、今日のこの場所を用意してくれたみなさんにお礼を申し上げたいと思います。つまり、ガルムリ出版社のみなさん、通訳の さん、そしてこの場に集まっていただいたみなさんです。

 わたしはこれまで、日本とアジアの関係、アジアのなかの日本というテーマに関心を持ってきて、中国の人たちとも話し合ったりしてきたのですが、なぜかこれまで韓国の方々とお話しする機会がありませんでした。

 個人的な友人もいないし、韓国の文化状況について詳しいともいえません。ですので、今日は韓国について学ぶいい機会になるだろうと期待しています。

 それから、今日の集まりのタイトルの「文学の未来?」ということばについて説明します。なにかタイトルをつけるように求められたとき、すぐに思いついたのがこのことばでした。日本の文芸ジャーナリズムでは、「文学の未来はどうなるのか?」といった話題が定期的にとりあげられます。もちろんこうした問いかけは、「文学に危機が訪れている」といった紋切り型とひとつになっているわけですが、そういうものを見るたびに、わたしは白けたような気持ちを感じてきました。タイトルの「?」にはそうした皮肉をこめたつもりです。

 なぜ「文学の危機」を問題にすることに共感できないのか? 実は半分くらいは共感しているのですが、同時に半分では、そうした問いかけは文芸ジャーナリズムの恒例儀式であり、商売の手立てに過ぎないという気持ちを持っているからです。そのへんの複雑な感情についても、今日説明できればいいと思います。

 さて、最初にある著作をとりあげます。今日のために少し前に読んだものです。韓国の文芸批評家金明仁氏の『闘争の詩学』という本です。この金氏がどのような方なのか、わたしはここに書いてある以上のことは知りません。しかし、この本を読んで、いろいろと啓発され、感銘を受けました。

 感じたのは、韓国と日本の文学状況の基本的な共通性と、部分的な差異です。金さんは、ここでやはり「文学の死」を問題にしています。それは文学作品が、社会的な意義や主張を失い、資本主義のなかで矮小な商品と化してしまったからです。彼がこの「近代文学の死」ということばを使ったのは2005年の文章ですね。この年代も僕には興味深く思われました。

 これを読んだとき、わたしがどうしても個人的に思い出さざるを得なかったのが、日本で1990年代に指導的な批評家であった柄谷行人が書いた『近代文学の終わり』という文章でした。彼が 年に発表したものです。実はわたしは大学院の修士課程でで柄谷に教わり、その前年に他の大学に移ったばかりでした。つまり、博士課程になり、いよいよ文学の世界で生きていこうと決意したとたんに、先生から文学は終わったと宣告されてしまったわけです。

 しかし、正直なところ、柄谷の認識に衝撃を受けたというわけではありませんでした。80年代から、文学の地位低下についてはずっと言われつづけて来たからです。柄谷の主張は目新しいものではなく、誰もが言っていたことをあらためて言い直したようなところがありました。

 柄谷は、文学は社会批判という役割を放棄してしまった以上、本当に「文学」を志す人間は、文章を書いたりするのではなく、直接社会運動に飛び込むべきだといっています。これが極論であることは明らかです。しかし、文学の死が宣告されているのにもかかわらず、なぜ自分は文学の世界にとどまりつづけるのかということを考えるきっかけにはなりました。つまりそのころから、わたしは「文学の死」問題にこだわっているわけです。

 では、なぜ文学が死んだ、少なくともそのようにいわれるのかを考えてみましょう。「死」以前と以降でなにがかわったのか? そのためには「近代文学」がどのようなものだったのか、歴史的に考えてみる必要があります。

 わたしは次のように思っています。「近代文学」は、「近代化」modernizationという、より巨大な国家規模のプロジェクトの一部であった、と。

 日本の近代文学が、江戸時代までのそれまでの文学と異なっていることは明らかです。日本は相対的に文学の伝統の豊かな国だと思いますが、江戸時代まで、文学者=戯作者の社会的地位は低いものでした。戯作者は、芝居などと結びついて大衆に娯楽を供給する特殊技能者であり、職人でした。また、和歌などは天皇制ともかかわってそれなりの文化的地位を維持してきましたが、それらは審美的な心情だけを表現するもので、社会批評の要素をほとんど持ちませんでした。

 近代文学は、文学の世界にある種の社会性、理念性を持ち込みました。もちろんそれは西洋から輸入されたものです。明治時代の作家たちは、自分が受け継いだ江戸時代からの文学で養われた感覚に、西洋的な「近代文学」の理念をむりやり接木するために苦闘しました。

 明治以降「文学」は自由や自立や平等といった近代的理念を追求するものとなりました。別のことばでいえば「個人主義」です。夏目漱石に「私の個人主義」という有名な講演がありますが、漱石こそ、日本という場所での個人主義の必要性と困難にもっとも意識的だった作家といえます。

 このように歴史的に言えば、「文学」も、国民国家樹立を志向する、「近代化」という百年規模のプロジェクトの一部だったのです。ただしそれは、国家主導の近代化に抗議する下からの近代化という性格を帯びていました。実際の担い手は知識人でしたが、民衆からの体制批判、社会批判という側面を持っていたわけです。

 文学が近代的理念を担っている以上、作家は単なる物語作りの職人ではなく、思想家、ないし文明批評家として存在することになります。ロシア文学なんかも明らかにそうですね。他方でそれはナショナリズムとも切り離せません。文学は国民国家の文化的中枢とみなされます。

 おそらくこうした構造は、日本ばかりでなく後発近代国家に広く見られるものなのではないかと思います。

 しかし、日本の場合、1980年代に近代化のプロジェクトが終焉を迎えます。特に八〇年代後半には、日本は近代国家として十分に成熟したという気分が広がります。そこではもう理念を担う必然性もなくなる。作家は、物語職人とみなされるようになります。江戸時代の戯作者への先祖がえりともいえるでしょう。

 もっともその後の長期不況の中で、格差や貧困や過剰労働というかたちで、日本社会の問題点があらわになる。つまり自由でも平等でもまったくないのですが、それでも、抑圧を打破して人間を解放する、といった「近代」の物語が輝きを取り戻すことはありませんでした

 むしろ政治の機能不全や革命や改革といった外科手術的措置の困難ばかりが意識されるようになりました。政治のレベルだけでなく、経済や金融、ITによる日常的なコミュニケーションといったものがハイブリッドに絡まりあったものとして日々の「生きづらさ」が存在している以上、単純な解決策ではにっちもさっちも行かないという感覚です。

 そこで、誰かが相対的な社会批判や理想の提示を行うことなどできそうにない。かわりに、社会学者、経済学者、心理学者、官僚といったローカルな専門家がそれぞれの場所で部分的な利害調整を行う、というかたちでしか知識人は存在していないように見えます。

 こうして、作家が思想家であった時代は終わりを告げました。日本ではこのような「近代文学」の解体が二十年くらいかけて進行しました。金明仁氏は、80年代文学と90年代文学のあいだに断絶を見ているので、韓国ではもう少し事態が急激に進んだのかもしれません。

 日本では特に2000年前後に文芸批評の凋落が明らかになり、若手の批評家と予備軍はなだれを打って、サブカルチャー批評に移りました。今はそのサブカル批評も沈滞して、批評自体が不在になっているような状況です。

 文芸批評というのは、個別の作品の向こう側に、社会的な意味や文脈を読み込むことですが、現代では社会を語るのになぜフィクションを媒介にする必要があるのか、誰にも理解されなくなっているようです。

 これがわたしの考える「近代文学の死」の経緯です。確かに、近代文学は終わったという認識は正しい。しかし同時に、これは単に文学の社会的な役割が変わっただけではないかとも思えるのです。

 批評家というのは、作品からどのような社会状況をひきだすことができるかと考えるのが仕事です。しかし作家は違う。作家にとってはまず自分の内側からわきだしてくるイメージやストーリーの方が重要です。それが何を意味しているのかはあとから考えることです。

 そして、「近代文学」が終わったかどうかなどとは関係なく、今もずっと膨大な作品が書かれつづけている。それはいったいどういうことか?

 もちろん今の文学に批判的な人は、それこそがまさに商業主義の支配なのだというでしょう。つまり、市場の要請に従って、出版者は作家を駆り立て、作家は市場の流行を追いかけながら、なんとか一儲けしようと苦闘しているのだ、と。

 けれど、それはあまりに一面的すぎる見方です。もちろん、市場の圧力が大きいというのはたしかにそうでしょう。もっとも正確に言えば、近代以降、文芸作品が市場から自由であったことなどないのですが、それでも現在では市場から自立した評価軸が困難になっているとはいえるでしょう。

 しかし作家というのは、まず自分の内側のモチーフから出発するものです。そこに商業主義的な制約があるにしても、その中で、いかに自分のモチーフを維持し、イマジネーションを開花させるかを考えるというのが作家の自然な発想だと思います。市場の要請と作家のモチヴェーションを対立し、葛藤する二項のように考えるのはかなり観念的だと思います。

 さらに、人間というのは本質的にどのような環境にあっても語り続け、物語をつくりつづけるものです。ことばでフィクションを作り上げるというのは、人間にとって根源的な本能であって、どのような社会であれ止むことがないのは明白です。

 わたしは、人間のユニークさは現実を確認するのに必ず虚構を必要とするということだと思っています。その虚構作成能力=イマジネーションの根源には言語能力がある。つまり、言語という人間固有の生物学的特質が歴史のなかでさまざまなかたちで発現する。そのひとつが文学なのだと考えています。そう考えれば、「近代文学」が役割を終え、社会がどう姿をかえても、ことばと文字によってフィクションをつむぐという行為が、文化のなかから消えることはありえない。

 話が急に抽象的になりすぎたかもしれません。そこで、最後にこれからの文学がどのようなものになるのか考えてみたいと思います。

 平田オリザという劇作家がいます。90年代の演劇を革新した重要な人物ですが、彼は1990年代半ばに、自分たちの演劇には伝えたいことや読者に向けられたメッセージはないのだということを言いました。これは別の言い方をすれば、自分たちの芝居には主題がない、あるいは、適切な主題を設定できない、ということです。

 主題、主張の不在が何をもたらすか。実は端的にいって売れないということです。つまり平田オリザは、自分の劇場に観客が押し寄せることはないだろうといっていたのですね。彼は、自分の芝居はカップルがデートに使うのには向かないなんて風にもいっていますね。主題がある作品というのは、見終わったあとにわっとおしゃべりがしたくなります。議論したくなる。相手の意見を確かめたくなる。コミュニケーションの欲求を駆り立てられるわけです。これは演劇でも映画でも、あるいは小説でもある程度はあてはまるのではないかと思います。主題というのは、作者と読者の関係のうえでは、メッセージであり主張なのですが、読者間の関係に注目してみれば、人々を結びつけるもの、共通の場所に集めるもの、動員するものです。だから主題というのは本質において政治的です。

 たとえば、今日本でもっとも有名な作家は百田直樹という人です。作家であり、同時に右派のオピニオンリーダーなのですが、かれを一躍有名にしたのは、「永遠の零」という特攻隊を素材にした小説が大ベストセラーになったことです。つまり、彼はあからさまに「太平洋戦争の擁護」という主題を提示することで大衆の動員に成功したわけです。文学作品としては拙劣なものですが、政治的には大成功した例です。

 平田はそうしたコミュニケーションを掻き立てない芝居をやる、というわけですね。むしろ無口になって、帰り道をじっとひとりで考え込まざるを得ないような演劇。彼はこれを主題ではなく、存在を描く演劇だとか、新しいリアリズムなのだという言い方をしています。

 これは現代文学のある種の潮流にもよくあてはまるように思います。2000年代に出てきた作家たちのなかには、通常の意味でのリアリズムとはまったく違うのだけど、確かにある種のリアリティ、別のことばで言うと主題というかたちで縮減できない生の複雑さを描く人たちがいる。柴崎友香、磯崎憲一郎、山下澄人などを念頭においているのですが、彼らは語り口としては非常に奇抜で前衛的なスタイルを駆使しているにも関わらず、わたしたちの日常的な生の繊細かつ不安定な実質を表現しているような印象を与える。どこか静物画的でもあります。もっとも、批評家にしてみれば、扱いづらい作家たちでしょうね。

 ただし現代文学は拡散していますから、これはあくまでひとつの潮流ではあっても、支配的な傾向ではありません。では、ほかにどのような可能性があるのでしょうか? ここでひとつ思い出してみたいのは、19世紀に生まれた「小説」というジャンル自体が、急速に複雑化する社会に適合するためにあみだされたものだということです。つまり、ブルジョア革命によって成立した市民社会は、身分によって区分けされたそれ以前の社会より、金銭の流れや、権力の働きといった点ではるかに複雑だったわけですね。それ以前の、叙事詩や物語が、基本的に「できごと」の継時的な関係しか描けなかったのに対して、小説の描写は、社会関係の空間的な広がりを描くことができたということです。

 日本のような後発国家で近代文学が必要とされたのも、身分や出自といったよりどころを失った個人が、複雑な社会をさまよっていくさまを描くことができたからでしょう。

 近代の理念が失墜した結果、わたしたちは何が正しく何が悪なのか、容易に答がみつからない世界に生きています。そこで、この複雑性を表現するのに長けているという小説の特徴、そしてことばならではの思弁性は、小説が持っている大きな優位ではないかと思います。現代社会を生きる意味を問い直すのに、小説はまだまだ有効なジャンルだろうということです。

 さらにひとつ付け加えたいのは、アメリカの研究者であるピーター・ブルックスが『メロドラマ的想像力』という本で述べている主張です。この本で彼は、「メロドラマ」という物語形式は、神を失った近代社会が、神聖さや超越性を何らかのかたちで維持しようとして生まれたものだと言っています。

 メロドラマというと、わたしたちはすぐにお涙頂戴のテレビドラマなどを思い出しますよね。ここ十年ほどで日本でもっともヒットしたメロドラマは韓国発の「冬のソナタ」です。一般にメロドラマはあまり高級なイメージを持たれていないのですが、ブルックスによれば、メロドラマはフランス革命以降に誕生してパリの劇壇で大流行した物語のパターンなのです。

 ここではメロドラマを、読者を登場人物に強く感情移入させ、その人物の矢継ぎ早の苦難と最終的な勝利によって、読者にカタルシスを与える物語というふうに考えておきましょう。すると、ドラマ、映画など領域を問わず、現在のあらゆるポピュラーな物語コンテンツに広く浸透していることがわかります。

 メロドラマは感情につよく訴えることを重視するあまり、論理性や本当らしさを軽視するので、あまり知的だとは考えられていません。しかし、ブルックスの主張のおもしろさは、世俗の論理では抜け落ちてしまう神聖さや超越性を求める大衆の欲望が、そのメロドラマにこめられているとする点です。

 批評家が「文学の死」を問題とするとき、本当は文学は死んでしまったのではなく、大衆的な物語の氾濫に呑み込まれたとするべきです。現代はかつてなく膨大な物語が、日々流通し、消費されていく時代だからです。それらのなかには、構造のうえで高度な洗練に達したものも少なくありません。

 ブルックスのメロドラマ論から学ぶべきは、そうしたサブカルチャー的なコンテンツの持つ様式を軽視するべきではない、ということでしょう。

 先ほど述べたように、わたしは、人間の言語というのは、必然的に虚構を分泌してしまうものだと思っています。文学というのは、その言語能力のいわば直系のこどもなのです。『私自身であろうとする衝動』では「美的経験」ということばを使いましたが、フィクションや芸術などの経験を通して、人間が自分の生の意味を知ろうとするのは、どのような時代もかわらないでしょう。ただ、そのために利用されるツールや、表現形式は移り変わっていくでしょう。文学の世界では、19世紀に生まれた「小説」というジャンルがその中心を担ってきました。しかし、これからがそれも変わっていくかもしれないし、小説自体がこれまでとは違ってくるでしょう。批評家の仕事は、その変化を注意深く観察することでしょう。そして、小説家の仕事は、自分が生きている現実をどうしたらリアルにとらえれるか悩みながら、まずとにかく書いてみることでしょう。
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[80호] 『벤야민-아도르노와 함께 보는 영화: 국가 폭력의 관점에서』를 읽고ㅣ유건식
자율평론 | 2024.03.25 | 추천 0 | 조회 46
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[80호] 관찰자들의 다중우주ㅣ이수영
자율평론 | 2024.03.14 | 추천 0 | 조회 114
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[80호] 『초월과 자기-초월』을 읽고ㅣ강지하
자율평론 | 2024.03.12 | 추천 0 | 조회 85
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[80호] 아직도 신이 필요할까?ㅣ김봉근
자율평론 | 2024.02.23 | 추천 0 | 조회 414
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[80호] 『예술과 공통장』 권범철 저자와의 인터뷰
자율평론 | 2024.02.05 | 추천 0 | 조회 414
자율평론 2024.02.05 0 414
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[80호] 그라디바를 통한 동아시아의 ‘여성’ 정체성 모색ㅣ백주진
자율평론 | 2024.01.28 | 추천 0 | 조회 192
자율평론 2024.01.28 0 192